澤井くんの「おとな」を読んで、自分なりに考えてみた。
自分の美意識やセンスを貫いた結果、傍から見れば「必要の度合いを越えた贅沢」や「無駄」に見えてしまう。それでも恥ずかしがらずに引き受けられることを「おとな」と呼びたい。言ってしまえば、これが「奢侈(しゃし)」だと思う。
先日、渋谷のBarで、澤井くんが紹介してくれた日本舞踊の花柳達真さんに連れて行っていただき、現役の芸者・小糸さんの芸を拝見する機会があったね。94歳になっても三味線を持つ手に迷いがなかった。
ひとつのことを何十年も続けてきた人の前に立つと圧倒される。朗らかでお茶目でいて凛としている。相対した時の感覚は、ちゃんと書きたいと思う。
今回は、もうひとりの「おとな」としてタバコを燻らせながら知の海を泳いでいた松岡正剛さんについて書いてみたい。彼に惹かれたのも、彼がその奢侈を、自分の美学の必然として堂々と体現しているように思えたからだ。
10年前、世田谷にある松岡さんの事務所で行われた催しに足を運んだ時のこと。三味線奏者の本條秀太郎さんを招いてのイベントで、本楼と呼ばれる空間での演奏のあと、そのままテーブルを囲んだ食事会になった。


引用:松岡正剛の千夜千冊「1691夜 本條秀太郎『三味線語り』」
誰もが顔と名前を知っているような人たちが、当たり前みたいな顔で座っている中で、自分だけが明らかに場違いだった。それでも居心地は悪くなかった。ただ、贅沢な空気に身を任せていればよかったから。
休憩時間、前方で椅子に腰掛けている松岡さんに話しかけようと思った。彼はタバコをおもむろに吸い出した。一瞬目が合ったけれど「フーッ」と白い煙を吐き出している姿に見惚れてしまい、足が止まった。言葉を交わすことは叶わなかった。
無駄を楽しめるのが、おとな。
そんな僕の職場には、私生活を惜しみなく披露する「無頼派」の若手の同僚がいる。彼はタバコを吸うし、パチンコに行く。大手町の渋めのBarで年上と酒を飲み交わし、つい先日は会社のゴルフコンペにも足を運んでいた。家には麻雀卓があって、夜な夜な仲間と牌を囲んでいる。
年下の彼からも「おとな」を感じた。それは、たばこやギャンブルに興じる記号に感化されたわけではない。彼は世間の価値基準や未来なんて1ミリも計算していない。誰かのフォームを真似するわけでもなく、無理して「やりにいって」いない。
ただ、それが良いと思うから「地」でやっている。その切実さとピュアさと刹那性に、グッときたのだろう。
コロナ禍を経てから、目的と合理に縛られ、行動が漂白されている自分がいた。そのことに気づいてからも、癖はそう簡単には抜けない。
本を読むのすら、新しい視点を取り入れた先の「未来に対する期待値の計算」が働く。頭で考えれば、終電で帰って明日の早起きに備えるのが正しい。けれどそれだけでは、漂白された人生というか、どこか血の通っていない寂しさがある。
年齢を重ねれば、抗っても体力は低下していく。それなら明日の早起きという目先の効率を無視してでも、二度とないこの夜を味わい尽くそうとする刹那性にこそ価値がある。
その場に足を運んで、身体ごと浴びるように味わう。翌朝の二日酔いは、生きた証としての心地よい筋肉痛。あの夜の地続きにある時間こそが、いまの僕にとって視点を得られる贅沢な瞬間だ。
無駄を楽しむことって、澤井くんの中ではどういうものなんだろう。
